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第十二章

三 虚ろな眼差し


 ヤン不正規軍の弱点は圧倒的に人員と艦艇数が劣っているということだろう。普通陽動というと、少数を囮に使い多数を動かすことを言う。だが、イゼルローンに対してその逆を付くやり方を用いれば或いは……ヘネラリーフェはある作戦を立案した。
 勝たなくても良い、互角に持ち込めば。そうすることで、休戦あるいは再度講和という光が見えてくるかもしれない。ヘネラリーフェはそう考えることで、自らを鼓舞したのだ。
「本当にこれで良かったのか、リーフェ?」
 出撃を前にして、自室に閉じこもるヘネラリーフェに義父ビュコックが声を掛ける。皇帝がハイネセンに親征した折り、ビュコックはハイネセンへの帰還を許可されたのだ。そして、ヘネラリーフェは、出撃までの時間を両親と暮らすことを許された。
「目の前にある命の方が大切」
 もしあそこで見殺しにしていたら、ダグラスに会わせる顔がなかっただろう。ヤンもきっとわかってくれる筈だった。ただ、ヤンに許してもらおうとは思わない。自分のやろうとしていることは、明らかにヤンに対しての裏切りなのだ。
 戦いなんてどうなるかわからない。言うなれば運次第でもあるのだ。もしかしたら、トリスタンの中でシェーンコップと再会したようなことがまたあるかもしれない。
「シェーンコップの不良中年なら、後腐れなく殺してくれそうね」
 呟きはビュコックの耳には届かなかった。全てが終わったら、そうしたら逝ってしまおう。ヘネラリーフェはそう考えた。ヤンに刃を向けて、それでも尚生き続けたくはなかったのだ。ロイエンタールへの気持ちが釈然としないままなのは気になるが、今のヘネラリーフェのとってより大きな存在はヤンの方だろう。
 もっとも、戦闘中に殺してくれるのが一番良い方法なのだが。そうすれば、誰に迷惑をかけることもなく、誰の手を患わせることもないのだから。
 ふと見ると、手の甲に青い痣がある。またどこかにぶつけたのだろうか? 記憶すらないその痣を見ながらヘネラリーフェは内心嗤った。自分の躰はどこまで感覚が鈍くなっているのだろう、と。
 
 イゼルローンにその報告がもたらされたのは、三月に入ってすぐのことだった。
「ビュコック提督は命を助けられたらしい」
 ヤンの言葉に対してのシェーンコップの反応は早かった。
「……リーフェですか?」
 ヘネラリーフェがビュコックの命乞いをしたであろうことは一目瞭然だった。でなければ皇帝がビュコックを助ける理由がないのだ。
「多分ね……で、これからなんだが」
 君の意見を聞かせてもらえないかい? ヤンはそう言って年長の部下を見上げた。
「これからですか……」
 腕組みをしながらシェーンコップが呟く。なんの理由もなくあの皇帝が助命するとも思えないということは、彼にもなんとなく予測できた。ラインハルトの人柄がどうこうというのではなく、あくまでも王者としてのラインハルトの振る舞いを彼は考えたのだ。そして、それはつまり……
「ここへ来るのはブラウシュタット少将ということか……」
「十中八九」
 感情を抑えた声でシェーンコップは答えた。恐らく総攻撃の指揮をとるのはヘネラリーフェだろう。その為に皇帝ラインハルトはビュコックを助けた。彼はビュコックの命を利用してヘネラリーフェを手に入れたのである。
 それでも誰をも非難できない。これは戦争なのだ。勝つために人材を揃えるのは司令官としては当然のことだし、それにヘネラリーフェがいなければビュコックの命は永遠に失われていたのだ。だが、あまりに皮肉な巡り合わせだ。よりによってヘネラリーフェと戦わねばならぬとは……
「勝てると思うかい、彼女に?」
 勝ちたいとも思っていないような口調でヤンが問い掛ける。
「貴方が負けるとも思えませんな」
 不敵な言葉が放たれたが、人間言葉通りのことを考えているとは限らない。少なくともこの時シェーンコップはそうだった。負けはしないだろう。いくらヘネラリーフェでも、ヤンには勝てない。だが、互角にまで肉薄されるかもしれない。
「それならそれでいいさ」
 ヤンは平然と言い放った。できることなら避けたい戦闘……だが避けられぬのなら勝ち負け以前に互角の方が良い。ヤンは恐らくこの時ヘネラリーフェと同じ事を考えていたに違いない。
(互角に持ち込めば或いは、講和に持っていけるかもしれない)
 だが、トリスタンに突入したときとは違う。あの時敵の内側から支援してくれた女こそが今度の敵なのだから。
 五月一日、皇帝ラインハルトを陣頭に迎えて、帝国軍はイゼルローン回廊への進入を開始した。イゼルローン要塞に帝国軍より入電したのはその当日であった。中央司令室の通信スクリーン上に帝国軍の軍服姿(しかも元帥)のヘネラリーフェの姿が映っている。それは帝国軍からの最後通告だった。
「すみやかに要塞を放棄して投降してください。聞き入れられない場合は、帝国軍の総力をあげて要塞を攻撃します」
 感情を押し殺した声が司令室に響き渡る。
「やはり彼女がきたか」
 ことさら驚いた風もなくヤンは呟いた。この時、ヤンは直接にはヘネラリーフェと対峙したわけではなかった。それゆえ、その状況は司令官室でシェーンコップより報告された事実である。
「ええ……でも見ちゃいられなかったですよ。あんな目をしたあいつを」
 完全に自分を殺していた。
「ひょっとして彼女……」
 ある危惧を持て余してヤンはそれを口にしたが、それはシェーンコップこそが最も恐れていた予測である。
「ええ、恐らく死ぬつもりでしょうな」
 十中八九この戦いが終わったら、彼女は自らの命を絶つだろう。いや、死ぬ為に戦うのかもしれない。
「前にも聞いたが、もし彼女が本気で攻めてきたとしたら勝てると思うかい?」
「勝てるとは思います。ただ、今度ばかりは勝ちたくもないですな」
 そうだ……ヤンもそう思っているからこそ、落ち着かないのだ。だが、恐らくヘネラリーフェは全力でヤンにぶつかってくるだろう。自分を殺させる為に……
「勝てるか……だが、こちらも死力を尽くさなくてはならないだろうな」
 覚悟がいるかもしれない。全力でぶつかってくるだろうヘネラリーフェは、きっとその力を遺憾なく発揮してくる筈だ。彼女にはヤンの考えていることが読めるのだから……
「なにせ彼女は帝国随一と言われた名将の血をひく戦争の天才だからね」
 ヤンの言葉に、シェーンコップは表情を緩めた。
「貴方にそう評価されたと知ったら、きっと喜びますよ」
 苦笑しながらシェーンコップは司令官室を後にした。既に事態は回避不能に陥っている。戦わなければならないのなら戦うまでだ。だが、ヘネラリーフェの策略に乗り、その結果彼女を死なせることだけは避けたかった。
(あいつの傍にはあの男がいる)
 妙なものだが、どんな事態に陥ろうとロイエンタールが傍にいればヘネラリーフェの命だけは助かるかもしれない。この時シェーンコップは敵である筈の男にそんな信頼を抱いたのだった。

 

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