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第五章

三 痛む心


 ヘネラリーフェの容態は一進一退であった。怪我の重さもあるが、何よりも出血が多すぎ体力が完全に失われていたのだ。意識が戻るのにも時間を要するだろうと見られていた。
 ロイエンタールは毎日ヘネラリーフェの病室に通った。彼女の目が覚めた時の対応を考えていたわけではなく、ただそうせずにはいられなかったのである。ただしそんな心境を彼が多少は持て余していたことも事実だった。
 ヘネラリーフェの意識は相変わらず戻る気配を見せない。それでも血の気のない青白い顔色に少しずつが赤みがさしはじめ、少なくとも命の危険だけは脱したであろうことは確信できた。
 息の荒さも消え安らかに眠るその様は、ロイエンタールに彼女が数千隻の艦隊の上に立つ司令官であることを忘れさせるに充分なものである。そんな状態が何日か続いたある日、事態は流れを変えた。
 重い瞼を気力と渾身の力を込めて開けると、そこには見慣れない空間が広がっていた。頭を巡らすと自らの腕から伸びる透明の点滴の管。大凡の見当はついた。どうやら助かってしまったらしい。ただしここがどこかにもよるのだが……それによって現状が天国にも地獄にも変化することを彼女は認識していた。
 頭ははっきりしていたが、躰が動かないことに彼女は閉口した。だからといって大人しくしているような性格でもない。自分の置かれた状況をいち早く知ることも生き残る上で大切なことなのである。もっとも、死ぬ気でとった決死の策だったため現段階で彼女に生きようとする意志はないと見てとってもいい。
「痛ッ……」
 僅かな動きに激痛が走り、細い肢体は悲鳴をあげた。なんとか起きあがろうとするもののどうやらそれは無茶無謀の何物でもないと悟った彼女は、それでも自分の躰の状態が知りたくて掛けられていた毛布を捲る。瞬間自分のいでたちに凍り付いた。毛布の下から現れたのは全裸にされた肢体に包帯だけを巻かれた姿だったのだ。
 負傷の度合いから見ても、そしてこれまでの戦闘経験からいっても、それ自体は特に異様な光景ではない。瀕死の重傷で集中治療室にでも入れられれば当然のいでたちなのである。が、さすがに慌てた。 
 いかにヘネラリーフェでもまだ羞恥心というものを持ち合わせているのだ。そりゃあシェーンコップのフラットの彼のベッドで彼と一緒に半裸で眠ったことはあったが……
 それはともかくとして、ヘネラリーフェは慌てて毛布を引き上げようとしたが、何せ少し動く度に激痛が走る身ではそれさえもなかなか思い通りにいかなかい。
 そんな悪戦苦闘の最中に病室の扉が軋む音をたてて開かれた。弾かれたように扉の方を見やる。その瞬間、彼女は自分の置かれた状況が絶望に近いことを悟った。
(捕虜……)
 そんな言葉が彼女の脳裏に浮かび上がる。それでも元来の気の強さがこの場合良い方向に作用し、ヘネラリーフェが動揺を見せることはなかった。ただしあくまでも外見上は、である。
「気が付いたようだな」
 入ってきたのは二人だった。長身の黒に近いダークブラウンの髪の男と、その男より一回り小柄な、だが引き締まった体躯におさまりの悪い蜂蜜色の髪の男。階級章からどちらも上級大将だと判断できた。
「誰よ、あんた」
 イザとなると肝の据わる性格だったことが有り難い。逃げ出したくなる衝動を冷ややかな言葉と態度に隠して彼女は二人を真っ直ぐに見据えた。あまりに強い眼差しに小柄な男の方は思わず感嘆の溜息を洩らし、もうひとりの男は口元に苦笑とも侮蔑ともとれる笑みを浮かべる。
「失礼した。小官は銀河帝国軍上級大将ウォルフガング=ミッターマイヤー、こちらはオスカー・フォン=ロイエンタール。以後お見知り置きを」
 どちらかというとさっさと忘れてやりたいと思いながらも、捕虜相手に敬意を崩さない二人にヘネラリーフェもそれ相応の対応をしないわけにはいかなかった。もっともヤン艦隊の面々から見ればかなり殊勝な態度でも、お堅い帝国軍人から見ればかなり腹立たしいものであったことだろうが。
 しかし、ロイエンタール・ミッターマイヤー両提督はどうやらそんなことに目くじらをたてるような了見の狭い男ではなかったらしい。逆に言えば相手を怒らせて攪乱してやろうというヘネラリーフェお得意の戦法は使えないということでもあった。
「で? 何か私に用?」
 喋るたびに走る躰の痛みにヘネラリーフェは些か閉口していた。どうやら負傷の程度は洒落にならないものらしいと認識するのに時間はかからなかった。
 恐らく鎮痛剤の効き目も切れかかっているのもあるのだろうが、それを相手に悟られることは避けたかった。こんな状況にまでなってしまったからには今更意地を張ってもしょうがないのだが、それでも自尊心が弱味を見せることを強固に拒んだのである。
 しかし何事にも限界はある。少なくとも今のヘネラリーフェからは、平常時のように気丈に振る舞うだけの、そして己の置かれた最悪の状況に耐えうるだけの気力と体力は奪われていた。平然としながらも、たったひとり敵中に捕らえられたことで確かに彼女の精神は不安定になっていたのである。
 表情を読まれぬようにと彼女が二人から顔を背けるべく躰を動かしたその時、ついに彼女は痛みに耐えきれず苦鳴を洩らした。
「あっ……くぅ……」
 苦痛に思わず躰を仰け反らせる。息が乱れて全身から冷たい汗が流れ出した。
 そんなヘネラリーフェの躰を逞しい腕が押さえつける。その手を払いのける力も余裕も彼女にはなかった。
「無理はしない方がいい。折角助かった命を無下に散らせる必要はあるまい?」
 落ち着きすぎる声がかえって嫌味なほどであったが、ヘネラリーフェはその声の持ち主に一瞥を与えたのみで目を閉じた。言い返す気力も萎えていたのだ。
 数分後、俯せて枕に顔をうずめるようにしながらも、鎮痛剤の効果も手伝いヘネラリーフェはなんとか痛みをやりすごしていた。
「貴女に二、三聞きたいことがあったのだが、こんな状態では無理だろう。またの機会にさせてもらおう」
「聞きたいことがあるならさっさと言いなさいよ。ただし答えてあげられるかどうかはわからないけど」
 俯かせていた顔を僅かにだが上げ、ヘネラリーフェはミッターマイヤーを見据えた。
(気丈な人だ)
 敵中にただひとり心細くない筈がない。一体何がこの華奢な女性を支えているのだろうか? ミッターマイヤーはヘネラリーフェの凛然とした態度に感嘆する以外の術を見つけられなかった。
「その調子ではイゼルローンやヤン艦隊の機密を話してもらえるとは思えんな」
「イゼルローンは元々帝国が建造したものでしょ。ヤン艦隊に関しては教えてあげられることは何もないわ。ひとつだけ言えるのは、専制国家で育った貴方達には彼等を理解することは永遠に無理だということよ」
 手厳しい言葉にミッターマイヤーが苦笑する。この場は、そう簡単に口を割るような人間ならあんな無茶な戦い方などしないだろうし、口が軽い人間は信用できないだろうと思うことにして、彼は質問を変えた。
「ひとつ伺うが、貴女のお父上は帝国軍元帥ブラウシュタット侯爵閣下か?」
(やはりきたか)
 帝国に関われば亡き両親の存在が無視される筈もない。父は偉大な軍人だった。それ以上に母は皇室の血を引く人間である。自分は同盟で育ち、帝国の知識など皆無に等しい。だが周りはそうは見てくれないのである。
 同盟でも悪意のある噂が絶えず囁かれた。このまま帝国に捕虜として連れて行かれれば、今度は裏切り者として誹られ、同時に忌まわしいゴールデンバウムの血を引く者として悪ければ命を断たれるだろう。
「分かり切ったことをわざわざ問い質す必要はないでしょ? もうどうとでもしてよ。同盟に与した裏切り者とでも、ゴールデンバウムの血を引く賊軍としてでもどうぞお好きに」
 投げやりと言うのが一番相応しいだろう口調でヘネラリーフェは言い放った。本当にもうどうでもよかったのだ。
 どうせ二度とイゼルローンの土(?)を踏むことはない。ヤンとも仲間とも、そしてハイネセンの両親とも恐らく永遠に相見えることはないのだ。このまま生きながらえてもオーディンに到着すれば去勢区送りか戦犯か何かで処刑である。
「大体、なんで救助なんかしたのよ。あのまま放っておいてくれればよかったのに」
 部下を脱出させる際、彼女は生きることに足掻くからと説得した。だが、結局するだけ無駄だったのである。足掻いても、いや逆に足掻けば足掻くほど事態は縺れていくのだ。
 そんなヘネラリーフェに紡がれたロイエンタールの言葉は、だが彼女を慟哭の真っ直中へと突き落とした。
「好きで救助したわけではない。お前の艦から救難信号が発信されていた。助けを求めている者を無視するわけにはいかない」
「救難信号? 知らないわよ、私」
 部下は全員退艦させた。あの時ニュクスにいたのはヘネラリーフェだけであったのだ。救助を求めるつもりもないし、そもそもそんな気があるなら最初からあんな作戦など立てない。
「貴官が助かったのは、まるで貴官を守るかのように覆い被さっていた人間が結果的に貴官を爆発から守る盾になったからだろうと軍医が言っていたが」
 ヘネラリーフェの瞳が驚愕に見開かれた。あの爆発の中、自分の躰の上に誰かが覆い被さったような感覚を確かに覚えた。あれは夢でも幻でもなかったのか?
「まさか……全員脱出させた筈だわ」
 その呟きに、双璧と呼ばれる二人は自分達の目に狂いはなかったと確信した。彼女はたったひとりで自軍を、部下を守ろうとしたのだ。その身を賭してまで……だからこそ彼女を命がけで守ろうとする部下が存在したのだろう。
 ヘネラリーフェは機知と胆力に富んだ気骨ある女性というだけでなく、司令官に相応しい人柄を備えていたのだ。おそらく部下からの、いや、上官からをも人望を一身に集めていたのだろうなとミッターマイヤーとロイエンタールは思った。
「その人間は今どうしているの?」
「言わなかったか? お前が助かったのは奇蹟だと。盾になった人間が無事でいると思うのか?」
 貴官がお前になったことなど気にも止めないでヘネラリーフェは顔色を変えた。そんな彼女に一枚のネームプレートが手渡される。記入された名はヘネラリーフェの副官のものであった。
 沈黙が流れた。ヘネラリーフェの手の中にある小さな遺品に、透明な雫がひとつまたひとつと静かに降り注ぐ。ミッターマイヤーとロイエンタールは同時に声を失った。
 彼等はこれまでに数多くの上官に巡り逢ってきた。だが、その中に部下の死を悼んでくれるような人間がいただろうか? 二人はそっと病室から抜け出した。
「羨ましいな」
 ポツリとロイエンタールが呟く。殉職したヘネラリーフェの副官が心底羨ましかった。上官に泣いてもらえる、いや、そうではない。ロイエンタールには肉親はいない。それは物理的なものだけではなく精神的にもであった。
 彼が戦場に命を散らせても恐らく本気で哀しんでくれる人間はいないだろう。いや、ミッターマイヤーなら泣いてくれるかもしれないが。
「俺が死んでも泣いてくれる人間はいない。それは元から承知だ。俺には寂しさなどわからん。だが彼女を見ていたら泣いてくれる人間がいないのは心底寂しいことなんじゃないかと思えた」
 あの副官の身寄りがどうなのかなどということは預かり知らぬことだ。家族がいても、そして逆に天涯孤独な身の上だったとしても、だがあの副官にはその死を悼んで涙を流してくれる人間がひとりだけは確実に存在していたのだ。
 ロイエンタールの記憶が再びカプチェランカに引き戻された。ダグラス=ビュコックを失ったあの時、恐らくヘネラリーフェは静かな慟哭にその身を任せたのだろう。ひとりでもそういう人間がいたなら、きっとダグラスという男は幸せだったに違いない。
「ひとりでいい、泣いてくれる人間がいたら」
 ロイエンタールの微かな呟きはミッターマイヤーの耳には届かなかった。だがその言葉こそ、ロイエンタールが実は人の温もりを欲しているという本心に他ならない。

 

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