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第四章

二 束の間の


「司令官に隠れて飲酒とは何事かぁ!!」
 宇宙歴七九八年一月、アッテンボローとヘネラリーフェは分艦隊を率いて要塞を離れ、イゼルローン回廊を帝国領の方角へ突出していた。目的は最前線の警備・哨戒と新兵の大規模な訓練である。
 ヘネラリーフェの怒声が旗艦ニュクス内に響いたのは、ハードな一日分の訓練メニューを終えて艦隊が落ち着きを取り戻した頃であった。いくら訓練も終わった自由時間といっても時と場所を考えれば飲酒などしている場合ではない。が、怒声の後に続くヘネラリーフェの更なる言葉に、それを浴びせられた方は唖然とした。
「私の分はないわけ?」
 ヤンがまだ第二艦隊にいた頃、臨戦態勢ではなかったにせよ戦闘を控えている身で平然と飲酒していたことを思えば、ヘネラリーフェのこの態度はいかにも彼の部下であるということを物語っている。
 それに今回のこの訓練にあたっている熟練兵にしてみれば呑まなければやっていられないという気持も確かにあるのだ。
 イゼルローン要塞は最前線にあり、帝国が軍事行動を起こすとき身をもってその第一撃を受け止める立場にある。その重要な拠点から経験のある兵が引き抜かれ、新たに補充されたのは新兵とくれば戦闘力の質の低下は免れない。
 だがそれをそのままにしておくことも当然ながらできない。その為にその新兵を一刻も早く一人前にしなくてはならないのである。が、それは容易なものではなく、新兵を教育する立場にある者は、勿論アッテンボローとヘネラリーフェも含めて前途に遼遠たる想いを抱いていたのだ。
 旗艦内を一回りして厳しくも暖かい激励と叱咤を飛ばしたヘネラリーフェは、その都度分け前を拝領し、といってもさすがに酔っぱらうほど呑みもしないし、そこまで緊張を緩めているわけでもないのだが、とにかく艦内を一周した彼女は表情をそれまでの楽しげなものから厳しいものに引き締めてアッテンボローの旗艦『トリグラフ』へと向かった。
 トリグラフ内の状況もニュクスとそう変わりはなく、熟練兵は酒と友誼を深め、新兵はハードな訓練に打ちのめされていた。
「やれやれ、明日からが思いやられるな」
「自分もそういう時があったと思えば、順番が回ってきたと諦めるしかないわね」
 どちらかというと、コーヒー入りのコニャックと紅茶入りのブランデーという様相のものを飲みながら二人は明日からの訓練計画書に目を通している。艦橋ではなく司令官室での打ち合わせということに、ヘネラリーフェはともかくアッテンボローは束の間の幸福を噛みしめていた。
 頬杖をつきながら書類をめくるヘネラリーフェの眼差しは少し伏し目がちで長い睫毛が微かに揺れている。長く流れる琥珀色の髪を時折うるさそうに掻き上げると細い頸が露わになり、アッテンボローは思わずドキリとした。
「髪、随分と長くなったな」
 高鳴る胸の鼓動を悟られないように咄嗟に言葉を口にする。確かに一旦は切ったとはいえこの三年間でヘネラリーフェの髪は以前通り、いやそれ以上に長くなっていた。シェーンコップなどは彼女の髪をすっかり玩具か何かと思っているようで、よく指に絡めて掻き乱したりしているが、確かに触れたくなるような柔らかさと美しさである。
 その時アッテンボローはふと考えた。もしかしたら、ダグラスもそうだったのではないのだろうかと。同時に三年前ヘネラリーフェが髪を切った理由に今頃になってようやく思い当たったのである。
 アッテンボローの眼差しを痛いほど感じヘネラリーフェが彼を見やる。何か言いたそうな彼を制するように彼女が口を開いた。
「この髪ね、ダグもお気に入りだったの」
 どうやらアッテンボローの考えていたことなど既にお見通しだったようである。
「だからあの時切ったのか?」
 すぐには返事は聞かれなかった。吹っ切ったとはいえ、ダグラスのこと、そして彼に関わる想い出は今でも痛みを伴う過去に違いない。アッテンボローは急かせることなくヘネラリーフェが口を開くのを待った。
「髪にね、彼の手の感触が残ったままだったの」
 ポツリポツリとヘネラリーフェが話し始めた。
 アッテンボローが想像したとおり、やはりヘネラリーフェの琥珀色の髪はダグラスのお気に入りだった。ことあるごとにその髪に指を絡めて掻き乱していたらしい。そして、ヘネラリーフェにとってそれは心地よくて優しい感触として残った。ダグラスの指の感触と手の温もり、いつしか触れられるを待つようにさえなっていたのだ。だが……
「なんだか掻き乱してもらえなくなったのが寂しくてね」
 そのくせ、彼の手の感触がはっきりと残っているのだ。ならば断ち切ってしまおう! だがそんな気持ちを士官学校に通う間彼女は持て余し続けた。どうしても踏ん切りがつかなかったのだ。無理に忘れようとすればするほど、ダグラスの幻が現れ彼女を揺さぶり続けた。決心したのは士官学校を卒業した三年前、ダグラスの死から二年を経てである。
「ダグのことを吹っ切るというよりも、けじめって感じだったの。もう学生じゃなく正式に軍人になったんだっていうね。でも結果は惨敗」
 結局彼のことを吹っ切ることはできなかった。それどころか他人に心を開けなくなっていく。ビュコックに引き取られた頃の自分にどんどん逆戻りしているような気がして、ヘネラリーフェは自分の変化が恐ろしかった。そんなときに出逢ったのがシェーンコップでありヤンだったのだ。
「私ね、ダグのこと忘れようと必死になっていたの。でも不良中年に言われたんだ。忘れる必要はないって」
 忘れようと必死になり、結果的に自分の心を追い詰めていた。
 あの問題の一夜、忘れたくても忘れられないと哭くヘネラリーフェにシェーンコップは言ったのだ。
「忘れなくては駄目なのか? 忘れなくても他人のことを好きになれるかもしれない。大切だったあの頃は想い出となって私の中にある。忘れないでいて、そしてそうやってひとつ大人になってまた恋をすれば良いって。なんだか目から鱗よね」
 たったそれだけの言葉である。だがその短い言葉こそがヘネラリーフェに過去の呪縛を断ち切らせたものであった。
「伊達に場数を踏んでいるわけではないんだな、あの不良は」
 自分だったら、恐らく忘れる必要などないとは言えなかっただろう。ダグラスとは同期であり親友であったアッテンボローにとって、彼自身がまずダグラスを吹っ切れていなかったのだ。だからヘネラリーフェの心が痛いほどわかると同時に、ただ互いの傷を舐め合うことしかできなかったのである。
「年の功かも」
 二人はシェーンコップの憮然とした表情を想像して笑い合う。
 アッテンボローの胸中にはそれとはまた違った想いが浮かび上がっていた。ダグラスが死んで以来、まさかヘネラリーフェと彼の話を笑いながらできようとは、今日のこの日まで想像もしなかったのだから。
 
 翌日も厳しい訓練がおこなわれていたが、その訓練の最中トリグラフの艦橋でオペレーター達が俄に緊迫した。索敵システムに未確認艦船軍の存在が補足されたのである。数は一〇〇〇隻以上。大規模な亡命者の船団という極少の可能性を除外すれば、帝国軍の艦隊でしかありえない。
 その報告はアッテンボローとヘネラリーフェに直ちにもたらされた。ヘネラリーフェはトリグラフに召喚され、各艦長へは訓練の中止と臨戦態勢入りの命令が下される。
「よりによってこんなときに。これじゃあボーイスカウト率いて戦争するようなものね」
 緊迫した状況の中、その空気にはほど遠い言葉が呟かれる。だが、それがヘネラリーフェお得意の周りを落ち着かせる策だと気付いているものは極少数だろう。だがそうとは気付かないまでも、艦橋は最初の衝撃から冷静さを取り戻しつつあった。
「閣下、新兵と訓練生も出動させるおつもりですか?」
 ヘネラリーフェの呟きを耳にとめた者から驚愕の声があがった。
「当然でしょ! どうせ一度は初陣を経験しなくてはならないのよ。遅いか早いかの違いだわ。それに、彼等に特等席で実戦を見学させるほど我が艦隊に余裕はないわ」 
 艦数においては敵に劣っているわけではなかった。だが、問題は中身なのである。
 新兵を各部署に配置しなければ戦闘要員の数が決定的に不足をきたす事態になるであろうという考えにおいて、アッテンボローとヘネラリーフェの意見は一致していた。
「ブラウシュタット少将の意見に俺も賛成だ。彼等も出動させろ」
 アッテンボローが決断して命令を下す。新兵のうち一体何人が要塞の自分のベッドに帰ることができるだろう? せめて救援が来るまで被害を最小限に食い止めるしかない。アッテンボローは『勝』」ことより『負けない』ことを方針として採ることに決めたが、裏を返せばそれしか選択肢がなかったともいえた。
 アッテンボローとヘネラリーフェ、若く才能もあり絶妙のコンビネーションを見せつけるこの二人の名提督が司令官として采配を振るえば恐らくどんな相手にも無敵だろう。だが今回だけはそうはいかなかった。
 艦艇数では勝っていても戦闘経験がまったくない新兵など兵力とは呼べない。どれほど有能な指揮官でも将兵が思い通りに動いてくれなくてはどうすることもできないのである。
 それでも艦隊が早々の崩壊を免れているのはやはりこの二人の力量故にだろう。敏速とはお世辞にも言えない艦隊運動を持て余しながら、それならそれでと臨機応変にその都度対応を変えるヘネラリーフェの柔軟な用兵と戦略にアッテンボローは正直舌をまいた。
「対した感覚だな」
 戦闘という現実的なことに従事している者が言うのも妙な話なのだが、生き残るには才能だけではなく運が必要なのだとアッテンボローだけでなく多くの者が思うところである。生まれついての『運』もしくは『感覚』、どれほど訓練を積んでもどうしようもないそれらが生死をわけるとは皮肉なものである。
 だが、確かにヘネラリーフェにはそれがある。勿論アッテンボローにも、そしてヤンにもそれがあるのだ。そして、だからこそこれまでの熾烈な激戦を生き延びてこられたのである。同時に、彼等のような人間を上官にもった将兵達はやはり運が良いと言えるだろう。
 それでも確実に味方は打ち減らされていく。一人でも多く連れて帰る……今、アッテンボローとヘネラリーフェを支えていたのはそんな信念であった。
 時が経つごとに、さしもの二人にも焦りの色が濃くなっていく。今回の訓練に参加しているユリアンのことを気にかける余裕すらなくなっていた。ただ、気にかけたからといって彼だけをこの戦闘から外して保護するわけにもいかない。
(死ぬなよ)
 アッテンボローとヘネラリーフェに今できることは、ユリアンの才能と運に祈りを託すことだけであった。
 トリグラフの至近で友軍の戦艦が爆発する。その衝撃を受け、トリグラフが激しく振動した。
「きゃっ」
 小さく叫びながらヘネラリーフェの躰がグラリと揺れあわや転倒と思われたそのとき、アッテンボローは咄嗟に彼女の華奢な躰を背後から支えるようにして抱き締めた。
「大丈夫か?」
 琥珀色の髪に顔を埋めるようにして囁く。アッテンボローの腕に捕らえられ身動きひとつできずにいるヘネラリーフェの耳元に彼の熱い吐息がかかり彼女は瞬間ビクリと身を竦めた。
「先輩……」
「俺はいつまでたっても先輩以上にはなれないのか?」
 ヘネラリーフェは過去は過去として想い出はそのままに、だがダグラスの死を吹っ切った。なのに自分は一度フラれているにもかかわらずヘネラリーフェを吹っ切れないでいる。自分でも諦めの悪い男だと思う。だが、理性と感情がまるで別の生き物のようにアッテンボローの心を振り回し掻き乱すのだ。
 ヘネラリーフェは何も言わない。爆音が響き、爆発の強烈な閃光がスクリーンを通して艦橋を照らし出す。そんな生死の境目で二人の時間だけがゆっくりとスローモーションのように流れていた。
 再び至近で爆発がおき、トリグラフが激しく揺れる。これまで戦闘に従事してきて恐いと思ったことは一度もない。だが、ヘネラリーフェは思わずアッテンボローにしがみついた。
「大丈夫だ、お前は俺が必ず守る」
 低い囁きにヘネラリーフェが振り仰ぐと、アッテンボローの真摯な眼差しと視線が絡む。彼の指がヘネラリーフェの顎にかけられ上向かされた。時が止まる。
 アッテンボローの唇がヘネラリーフェの可憐なそれをそっと包み込み、そして静かに離れる。彼はヘネラリーフェの細い肢体をありったけの力を込めて抱き締めた。
「愛している、リーフェ」
「貴方には感謝している……いつも見守っていてくれて。私も貴方のことが好きだわ。でもそれは友人として。ご免なさい、どうやってもそれ以上には思えない。ただ、これだけは言わせて。ダグより早く出逢っていたら、私はきっと貴方の方を好きになっていたと思う」
 アッテンボローに抱き締められるまま、彼の胸に顔を埋めながらヘネラリーフェは答えた。それはその場の雰囲気に流された言葉ではなく彼女の本心であった。
 一〇歳で父を失いビュコックに引き取られてから、アッテンボローの深い愛情と優しさはダグラスから受けるそれと共に常に感じ取ってきた。ダグラス亡き後それは尚更で、ダグラスを忘れ彼を愛することができたらどれほど救われることだろうと正直思ったこともある。
「先のことはわからない。でも、これが今の私の気持ちなの」
 アッテンボローはそっと天を見上げた。二度目の完全失恋、さすがにショックである。だが、それでもそれ以上の言葉をヘネラリーフェから贈られた。
(ダグより先に出逢っていたら)
 生涯で最高の、これはひょっとしたらヘネラリーフェの愛の告白だったのでないのだろうか? 一生報われることのないであろう、だが二人はこの戦場で束の間の恋人であった。
「援軍だ! 援軍がきたぞ!」
 艦橋に響き渡るその声を二人はどこか余所の世界のことのようにボンヤリと聞いていた。
 イゼルローン要塞の方向から近付く無数の光点は、見守る二人の前で急速に拡大して光の壁となっていったのである。

 

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