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第一章

二 星に願いを


 夕焼けが一層輝きを増し、墓標と眼下の大海原を朱く染めていく。その茜色の陽光と海風を受けてなびくヘネラリーフェの琥珀色の髪が、尚一層の輝きを増す。
 先刻、死ぬつもりなのかというアッテンボローの問いに彼女は否と答えた。そう答えはしたが、だがそうでないことは問い掛けた本人であるアッテンボローが一番よく知っていたと言える。
 ダグラス戦死の悲報が入ったその時からヘネラリーフェは変わった。確かにそれ以前から軍人志望であり既に士官学校にも入学していた。ダグラスが生きていたとしても恐らく軍人になることをやめることはなかったであろう。
 それ自体に問題があるわけではないのだ。そうではなくもっと内面的なもの。アッテンボローは彼女の生き方にどこか投げやりな部分を感じるようになっていたのだ。
 どこか危なげで自虐的で、放っておけば確実に破滅への道を歩き出してしまいそうな危機感。前々から少々危うげな雰囲気をかもしだしてはいたし、そのあたりのことはダグラスも危惧していた節がある。
 ただ、実のところダグラスの存在は彼女のそういう部分を薄れさせてもいたのだ。だからこそ、彼を失ったヘネラリーフェが心配であった。いっそのこと、日常の生活も困難なほど壊れてくれた方がマシである。そうすればどこかに監禁でもしておけばよいのだから。
 今のヘネラリーフェは外見上は以前通り明るく可愛らしい年頃の娘であるが、どこか掴み所のない部分が増していた。
 真面目な話をしようにも冗談で誤魔化したり有耶無耶にしたりという所作は、そのまま彼女の不安定さを顕著に現しているのではないのだろうか。
 墓前に跪くようにしているヘネラリーフェを後ろから見守るような形で立っているアッテンボローには彼女の表情を伺い知ることはできないが、どことなく近寄りがたい気が全身を覆っていることは感じ取れる。
 こんな時、アッテンボローは自分の無力さを否応なく思い知らされるのだ。どうやってもダグラス以上にはなれないのだと。
 いつからだったのだろうか……ヘネラリーフェを友人の恋人とは見られなくなってしまったのは。ダグラスが逝ってしまってからであることだけは確かなのだが、いつしか無意識にヘネラリーフェの姿を目で追う自分がいた。
 最初は純粋に亡き友の代わりに見守るつもりだった。それがそうではなくなったことに自分自身気付いたとき、無意識の行為が意識して行う行為へと変化していくことを止める術を、既にアッテンボローは失っていた。
 いつか自分のこの想いを打ち明けようと決心しながら、あと一歩が踏み出せないジレンマ。どんな結果になろうと打ち明けてスッキリしたいという気持ちと、逆に友人そして先輩後輩としての関係さえも破綻してしまったとき、はたして自分は無心でいられるのかという恐れにも似た気持ち。そんな相反する心が絶えずアッテンボローを揺さぶり続けていた。
 だがもしかするとアッテンボローがヘネラリーフェの従軍に難色を示すこと自体が、既に無心ではいられない証拠なのかもしれない。
 もし万が一何かあったら……戦場にいる限りその危惧がいつ本物となるかしれないのである。
「なあ、どうしてそんなに軍人になることに固執するんだ?」
 ヘネラリーフェの従軍に反対であることに固執するアッテンボローが問う。
「迷惑かけられないじゃない、お義父さんに」
「そうじゃないだろ? 誤魔化すなよ」
 ヘネラリーフェが従軍にこだわるわけが、奨学金だけの問題でないことは随分前からわかっていた。ただ、それが何であるのかまでは推測さえも不可能であったのだが。
 奨学金の問題も全くないわけではないのだろうが、もっと別の何かがあるには違いなかった。
 だがヘネラリーフェは答えの代わりに別の言葉を紡いだ。
♪When you wish upon a star,
Makes no difference who you are.
Anything your heart desires
will come to you.♪
 風に乗ってアルトの旋律が流れる。初めて聞くヘネラリーフェの歌声であった。
「それは?」
「ダグが教えてくれたの。『星に願いを』……大昔の歌なんだって」
 ふたりに沈黙が訪れる。次にヘネラリーフェが口を開いた時には茜色の夕焼けは既に消え、そろそろ夜空に満点の星が瞬き始めようとしていた。
「先輩、デートしようか」
 墓前から勢い良く立ち上がりながらヘネラリーフェがアッテンボローを振り返る。
 それが彼女お得意の気紛れや冗談でないことは、彼女の青緑色の真摯な光を見れば一目瞭然。アッテンボローは黙って頷くと歩き出した。
「ダグね、星が好きだったの。あの人が軍人になったのは、星の海の近くに行きたかったから。だから、私もあの人の見ていたものを見に行きたいの。瞬かない星を見に行くの。これで答えになってる?」
 だったら軍人でなくても……そんな愚かなことを口にするアッテンボローではなかった。
 宙を仰ぎ見るようにしながら歩くヘネラリーフェに、彼はついにかけるべき言葉を見い出せなかったのである。
 ヘネラリーフェの言葉は、彼女がダグラスという呪縛から解き放たれていないことを如実に物語ってもいた。
(星か……)
 古来から星に願いを託すことはよくあることらしい。戦場でなければ尚美しいだろうそれに、ダグラスは何か願いをかけていたのだろうか。だとすれば、それは叶えられることなく、例え叶えられていたとしても知ることなく逝ってしまったのかもしれない。
(俺が星に願いをかけるとしたら、多分平和かな)
 戦争などなければ、友人を亡くすこともなかったし、ヘネラリーフェに至っては恋人ばかりか実の父親をも失うことにはならなかった。ただ、戦争がなければ彼女が今ここにこうしていることはなかったことも事実である。
 アッテンボローは運命論者ではなかったが、そんな彼でもことヘネラリーフェに関することにだけは、運命の妙を感じずにはいられなかった。そして、どうやってもヘネラリーフェに従軍を諦めさせることは無理だということも、アッテンボローは悟ったのである。
 数を増す星々に見守らながら、ふたりは静かに歩き続けた。
 夜は人間の心を不思議と和らげる。昼間どれだけ顔を合わせようとも、一晩語り尽くす方が遙かに友情を深める作用があるのだ。宇宙を近くに感じる所為なのだと言う者もいる。無限の深淵の空間を前にすれば、確かに人間など無力で小さな存在でしかない。
「お前が好きだ」
 闇の安寧に背中を押されたのか、気付いたときにはアッテンボローは散々躊躇していた告白を終えていた。前を歩いていたヘネラリーフェが足を止め振り向く。
「それは知らなかったわ」
「茶化すなよ」
 話を混ぜっ返してはぐらかそうとする態度が見て取れたが、今度ばかりは彼女のその態度に振り回されるつもりは微塵もなかった。
 強い光を帯びた双眸がヘネラリーフェを射抜く。観念したかのように肩を竦めると、ヘネラリーフェは苦笑と溜息を洩らしながらそれでも真摯な瞳でアッテンボローを見つめ返した。
「気持ちはありがたいのですが、でも貴方の気持ちは受け取れそうにもありません」
 ショックはなかった。むしろ予想通りの返答だったくらいである。
「まだダグラスのことが忘れられない?」
「そうじゃないないと思う。そこまで貞操意識が強いとは自分でも思っていないし。ダグのことは自分なりにちゃんと整理をつけてる。軍人にはよくある話しでしょ?」
 淡々とした口調がかえって言っていることを否定しているようにも思える。
「無理するなよ」
 ダグラス戦死の報が入ったとき、ヘネラリーフェは涙ひとつ零さなかった。冷たい女だと非難する輩もいたが、そうではないことをアッテンボローは知っていた。涙も出ないほどの慟哭というものが確かにあるのだ。
 彼女は十歳の時に実の父親を目の前で亡くしていた。そして二度目の悲劇……どちらも戦争という暴力によってである。
 ダグラスの死をそう簡単に割り切れる筈がないということなど誰が考えてもわかることなのだ。
「無理なんてしてないわ。ただもう苦しみたくないとは思ってる。二度と大切な人を亡くして泣きたくない。だから私は二度と恋はしない。貴方でなくても、誰に告白されても私はその人の気持ちを受け取るつもりはない。それが軍人なら尚更ね」
 それは未来を捨てているということではないのか? ヘネラリーフェのその言葉にアッテンボローは、自分自身が感じ取っていた危惧が現実のものになったとしか感じられなかった。
 危うさも破滅的で投げやりな生き方も決して考えすぎなどではなかったのである。

 

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