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          あなた以外に なにもいらない
           いつまでも そばにいて
          生きられるだけ 許されるだけ
            このときめきのなか

             『純』松山 千春

 

終章


 涼やかな風がレースのカーテンを弄びながら部屋の中に吹き込んでくる。
「まだまだ日中は暑いのに、いつの間にか風が秋だ」
 ドアを開けるなり室内を通り抜けようとする軟風の洗礼を受けたミッターマイヤーが、部屋の中に向かって話しかけた。だが話しかけられた当の人物は振り返ることなく窓外を眺めている。
 やれやれ、またか……ミッターマイヤーは苦笑を浮かべながらロイエンタールに近付いていった。
 あれから……ヘネラリーフェとロイエンタールがイゼルローンからそれぞれの目的に向かって旅立ってから、そろそろ一年三ヶ月が経とうとしていた。
 それ以来暇さえあれば窓の外をボンヤリ眺めるロイエンタールの姿に十数年来の親友であるミッターマイヤーは少々胸を痛めていた。
 仕事は完璧。相変わらず冷淡で冷徹で冷静な金銀妖瞳の男は、統帥本部総長という身分に相応しい能力と持ってうまれた知勇のバランスをフル活用して皇帝を支えている。
 だが一旦職務を離れると、僚友達との付き合いを殆どしないまま、そしてあれほど漁色と謳われたロイエンタールが女には目もくれずにサッサと私邸に引きこもってしまうのだ。
 それでも今日のように執務室で物思いに耽ることは、ロイエンタール自身気を張っていることもるのだろうが、今のところ稀と言える範囲であり目撃しているのはミッターマイヤーだけだった。
 執務室に入ってくる以前に、恐らく彼はそれが誰かを敏感に感じとっているのだろう。それだけミッターマイヤーには気を許しているということなのだが、言いかえれば彼以外には全く気を許していないということになる。
 ロイエンタールの心を共有できるのは、ミッターマイヤー以外にはこの世にただひとりだけ……ヘネラリーフェという女ただひとりだけなのだ。
 俺では駄目なのか……と思わないわけではなかったが、しかしやはりロイエンタールを支えられるのは彼女だけだろう。いや、彼女だけであってほしいというのがミッターマイヤーの心の奥底からの願いであり正直な気持ちでもある。
「あれからもう一年以上たつのか……」
 ロイエンタールの背後から彼と同じ景色を眺めながらミッターマイヤーがポツリと呟いた。
「正直お前が彼女を手放すとは思わなかった」
 それはロイエンタールも同じ想いだ。自分自身が彼女を送り出すことを承諾したということを思えば矛盾しているが、だが確かにロイエンタール自身ヘネラリーフェの手を離せるとは全く考えていなかったのである。正直、自分の行動に驚いてさえいた。
「リーフェは帰ってくると言った。俺が信じてやらねば元も子もないだろう?」
 自嘲を込めた呟きがロイエンタールの口から零れ落ちたが、だがそれだけではないことをミッターマイヤーは知っていた。
 贖罪と悔恨……かつてヘネラリーフェの最愛の男ダグラスを殺し彼女の幸せを奪ったばかりか、捕虜となった彼女に服従を強要し、躰を奪い、人形のように従属する生を押しつけたのは紛れもなくロイエンタールである。自分の力で考え生きることを放棄させたのだ。
 ロイエンタールに捕らわれたヘネラリーフェは翼をもがれた鳥同然であった。だが、そうするうちに彼女はそれを甘受するようになってしまったのだ。あの屈辱と恥辱にまみれた生活にあろうことか甘美なものさえ感じ取っていた。そんな彼女が再び自分自身の力で羽ばたこうとしたとき、どうしてそれをロイエンタールに阻めるだろう?
「あいつは自分の意志で俺の前に立つと言った。それなら俺はその意志を尊重してやらなければならない。それに俺にお前がいるように彼女にも大切な仲間がいる」
 ロイエンタールは淡々と言葉を紡いだ。ミッターマイヤーは黙ってそれを聞いている。
 かつてヘネラリーフェはラインハルトに配下に加わるよう言われたとき、楽しくない職場はご免だと突っぱねた。その時は唖然としたものだが、イゼルローンの面々を知ってなるほどなぁと妙に納得したものだ。
 伊達と酔狂……あの面々の中にいれば確かに帝国軍では働きたくはないだろう。
 いや、同盟軍とて所詮軍隊である。現に歩く規則と呼ばれるムライのような人間もいた。だが、規則は破るためにあるとはイゼルローン組の専売特許だ。  
 いや、そうではない。友人を裏切りたくないから……そう、帝国だったから従軍を拒否した、ただそれだけのことなのだ。
 勿論それにはヤンの存在が大きく関わっている。そしてあの同胞達……どちらが影響されているのかわからないが、少なくともあのヘネラリーフェの性格はまさしくヤン艦隊そのものだ。
 ひねくれているようで実は驚くほどストレートな性格と、そしてあの潔さ……彼女はあの中にあってこそ光り輝く。
「それに……あいつは嘘を言わない」
 ヘネラリーフェはロイエンタールに嘘はつかない。どんなに険悪な時も、いや、だからこそヘネラリーフェはロイエンタールに自分の正直な気持ちをぶつけてきた。(ロイエンタールを愛しているということを自覚し、それを本人に言葉で伝えるのに年単位の時間がかかったことにはこの際目を瞑ろう)
「帰ってくると言ったからには必ず帰ってくる。あいつはそういう女だ」
 やると言ったからにはやる……そう言ってヤンに刃を向けた程の女だ。
 今でもあの最後の甘い夜のことがまざまざと脳裏に甦る。ヘネラリーフェの滑らかな白皙の肌、乱れた琥珀色の髪、潤んだ青緑色の双眸、桜色の可憐な口唇は濡れ、吐く息は熱く淫らに、そして絡みつく細い腕……切なさを伴う、だが優しく暖かい想い出だ。
 細くしなやかな躰を強く抱き締めたあの感覚は未だにロイエンタールの全身に残る。掻き乱した時の柔らかな髪の感触も。歩く度にそれはサラサラと靡き煌めいて……あの別れの時もそうだった。
 きびきびとしているのに優雅で、凛としているのに暖かい彼女の笑顔が一瞬走馬燈のようにロイエンタールの脳裏を駈け抜ける。
「お前が幸せになってくれるのなら、俺は何も言わんよ」
 ロイエンタールの肩を軽く叩きながらミッターマイヤーが言った。
 離ればなれでいることで辛い思いをしないのなら、心を病んでしまわないのなら、そして、後悔しないのなら……それならばミッターマイヤーが彼に言えることは何もない。
 穏やかな午後……差し込む陽光はいつしか真夏の苛烈なそれから秋の穏やかで柔らかな日差しへと変化していたようだ。それがヘネラリーフェの琥珀色の髪と優しい微笑を思わせ、二人は静かに窓外を見つめていた。
 不意に、微かに扉の軋む音が響いた。だが外を眺めるロイエンタールは振り向こうともしない。かわりにミッターマイヤーが訪問者を確かめるべく顔を振り向かせた。
 刻が止まった。何か言おうと口を開きかけたミッターマイヤーを入ってきた人物は人差し指を口唇にあてる仕草で押しとどめる。そして悪戯っぽい笑みとウインク……
「ロイエンタール、俺は一度戻る」
 静かな口調でそれだけ言い残すと、ミッターマイヤーはすれ違い様に訪問者の肩を軽く叩きロイエンタールの執務室を後にした。
 ミッターマイヤーを柔らかな微笑みで見送ると訪問者は静かに歩を進め、未だ振り向こうともしないロイエンタールの背後にそっと立った。甘やかな香りがロイエンタールの鼻孔をくすぐる。
 華奢な白い手が動き、外を眺めたまま秋風に身を任せるロイエンタールの双眸をそっと覆う。そして耳元に流れ込む柔らかなアルトの旋律……
「だぁ~~れだ」
 目を覆われたままの端麗な口元に苦笑ともとれる笑みが浮かびそして消えた。囁きかけるような低く艶のある声が背後の彼女の耳元に心地よく流れ込む。
「おかえり……リーフェ」
 細く白い手に彼の大きな手が重る。
 ロイエンタールが自分の眼を覆う優美な手を握り締めそっと引いた。背中が暖かくなる。振り仰ぐと深く優しい蒼海のごとき青緑色の双眸がロイエンタールの金銀妖瞳を包み込んでいた。
 背後のヘネラリーフェを見上げながら片手を彼女の首の後ろにまわし強く抱き寄せる。
 甘く激しく、だが互いを慈しむような口付け……
 爽秋の気配を漂わせる柔らかな風がそんな二人を祝福するように包み込み、そして吹き抜けていく。
 刻を経て二人の未来がようやく重なった、それはそんな瞬間だった。

 

   Ein gluckliches Ende

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