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           おぼろなる光もて静かに
         おん身は再び茂みと谷間をみたし、
            ようやくわが心を
          なべての煩いより解き放つ。

            『月に寄す』ゲーテ

 

第八章

一 幻惑の闇


 連れて行かれた場所がどこなのか、ヘネラリーフェには把握できなかった。後ろ手に縛られていたばかりか目隠までされていたのだ。
 だがその行為でヘネラリーフェが公的な場に連行されるのではないと、つまり彼等が独断で動いていることが確信できた。
 車が止まる。場所はわからないが車から玄関までの数十秒間でヘネラリーフェはそこが山の中であることに気付いた。
 ロイエンタールの屋敷で感じ取ったよりも幾分低めの気温と冷ややかな冴えた空気、そして木々を渡る風の音……別荘だろうか? 
 乱暴に引き立てられながら階段を降りさせられた。ドアの軋む音に続いて湿気った匂いが鼻を突く。目隠しを外されたと思った瞬間、部屋の中に乱暴に突き飛ばされた。
 未だ完治しない足と腕を戒められている身では躰を支えきることはできず、ヘネラリーフェは冷たい石の床に倒れ込んだ。
「いいザマですね、あの気高かった貴女が……」
 相変わらずの嘲笑の眼差しでリートベルクがヘネラリーフェを見やる。
 思わずキッと睨み付けた。一瞬リートベルクが怯むほどのそれは強い眼差しであったが、彼はそれを負け犬の遠吠えくらいにしか思わなかった。
 ヘネラリーフェの腕が自由ならともかく、今目の前にいる女は四肢の自由を殆どなくした状態なのだ。そんな人間に何ができるというのだろう? つまり、あくまでもリートベルクという男は弱者をとことんいたぶるタイプの人間なのだ。
「さて、少しは素直に言うことを聞く気になりましたか?」
 リートベルクがヘネラリーフェの横に片膝を付きながら彼女の顎を掴み強引に己の方を向かせる。
 勿論そんなことくらいで怯む彼女ではない。プイっとリートベルクから視線を逸らした。無言の拒絶……それがヘネラリーフェの答えであった。
 ここまでは予測の範囲だったのだろう。リートベルクは特に気分を損ねた風もなく、だが格段に残虐性が増した笑みを口元に浮かべながら一旦立ち上がると、何やら部下に耳打ちした。
 数分後、彼の手の中には白濁した液体の入ったアンプルが数本握られていた。
「今は便利なものがあるんですよ」
 見せつけるように指でアンプルを弄びながらリートベルクが再度ヘネラリーフェの傍らに膝を付く。
「自白剤をご存じですか? 一口に自白剤と言っても色々ありましてね」
 何が言いたいのだろうか? 彼の陰惨な笑みと口調がヘネラリーフェの心に重くのしかかる。
「古代魔術師と呼ばれる人間が媚薬と称して使用していた薬がどういったものなのか貴女は知っていますか?」
 唐突に話題が変わる。ヘネラリーフェは彼の言わんとすることを計りかねた。
「媚薬などと勿体ぶった名は付いていますが所詮は催淫剤の一種で、幻覚剤や麻薬などで調合されるんですよ」
 ヘネラリーフェの目の前でアンプルの中身が注射器に移される。朧気に彼の言おうとすることが見えてきたような気がした。つまり自白剤もそういうものの一種ということなのだろうか?
「これはね開発中の新薬でね、つまりまだ認可されていないんですよ。人体に及ぼす副作用などのデータもありません」
 注射器がヘネラリーフェの眼前に晒され、針から少量の薬剤が頬に垂らされる。
「幻覚剤と麻薬の混合薬と言えば、その恐ろしさもわかっていただけると思いますが……」
 ヘネラリーフェの身体に戦慄がはしった。
「どこまで正気でいられるでしょうね」
「私に何を言わせたいの?」
 ここでヘネラリーフェにある疑問が浮かんだ。
 人気のない山奥に連行までして一体何を聞き出すつもりなのだろう? 彼女とロイエンタールの仲が二人の迫真の演技だったという事実はこの際置いておいて、だがリートベルクはそれを目の当たりにしているのだ。
 いくらローエングラム公から絶大の信頼を寄せられているわけではないとしても、証拠云々以前に見たことをさっさと報告した方が手っ取り早いのではないのか?
 信憑性に乏しかったとしても、上級大将の私邸に行方不明だった侯爵家の娘が匿われているという報告を無視することもできない筈なのだ。誰が調査にあたるにせよ、だが確実にロイエンタールを追い詰めることができる。
 いや、別に堂々と己の口から報告するまでもない。噂をばらまけばよいのだ。
 ロイエンタールが行方不明中の皇族の血を引く侯爵家令嬢を私邸に置いているのは叛意の現れだと……それだけでひとまずロイエンタールの動きを封じ込めることができる筈だ。
 なのにである。そうはせず、わざわざロイエンタールの元から自分を連れてきたのは一体なんの為なのだ?
「あんたひょっとして……」
 一〇数年前のケリ……それをこの男もつけようとしているのだろうか。ヘネラリーフェの表情が険しさを帯びた。
「察しがいい人ですね。だがそれなら話は早い……先帝フリードリヒ四世から下賜された宝刀はどこですか?」
 ヘネラリーフェの眼が驚愕に見開かれた。やはり彼は忘れていなかったのだ……
 既に亡き先帝フリードリヒ四世は、レオンとグロリエッテの婚姻の祝いとして彼等に一振りの剣を贈った。
 皇帝の愛妾なのではと囁かれるほどの寵愛をフリードリヒ四世から受けていたグロリエッテ……だが皇帝からのそれは噂のようなものではなく、本当に純真な、まるで妹に対するような愛情であり想いであった。
 ヘネラリーフェの祖母が誰からも愛されるような存在だったように、その娘グロリエッテもまたそういう部分を持った人だった。
 それでも一部の人間に愛人の血を引く娘と誹謗されることが不憫で、とにかく幸せな家庭を築かせてやりたいと思ったフリードリヒ四世がグロリエッテの為に選んだ夫がレオンだったのだ。
 そういう意味ではフリードリヒ四世の審美眼は優れていたといえる。彼の願った通り、大貴族でありながらレオンとグロリエッテはまるで平凡な夫婦そのもので、幸せそうに輝いていた。
 そんな二人に贈られたのが、柄にゴールデンバウム家とブラウシュタット家の紋章が象眼され、鞘には宝石が散りばめられた剣だったのである。
 その時、フリードリヒ四世はこう言った。自分は後継を定める気はない。後は頼むと……
 そんな漠然と、そして抽象的な言葉に、だがいきり立つ者は多かった。
 あの剣を下賜されたことで半ばレオンが次の皇帝であると決まったようなものである。だがそれを認めるわけには断固いかないと色めき立つものは多かった。
 下賜された皇家の紋章が入っているそれを手に入れれば……後に父娘に悲劇を呼び込んだ、これが発端である。
 リートベルクがヘネラリーフェに対して見せていた幼い頃の優しさは、ただ宝刀を手に入れんが為の策略の一端でしかなかった。
 どうせならブラウシュタットの正当な後継者であるヘネラリーフェをも手に入れられれば一石二鳥と考えての行動だったのだろう。
 それに気付いたからこそヘネラリーフェは彼を遠ざけたのだ。勿論弱者をいたぶり踏みつけるところも許せなかった。
 それを今更……今更あの宝刀を手に入れてどうするというのだ? 
 既にこの帝国はラインハルト・フォン=ローエングラムと共に未来に歩みだしている。過去の世界でもそうだったように、時代を逆行させることはできないのだ。
 あの剣に皇帝の後継者たる意味合いは一切含まれてはいない。あれはフリードリヒ四世が母グロリエッテを守るために作ったものなのだ。
 レオンに贈ったのは、即ちグロリエッテを守る役目を彼に譲ったという、ただそれだけのことなのである。
 確かに帝国の未来を託したのかもしれない。だがそれと即位の意味は別なのだ。
 レオンは貴族でありながら心は民衆と共にあった。だからそんな彼がもし皇帝の言葉を実行に移すとしたら、恐らく進んだ先はラインハルトと同じだった筈だ。
「宝刀はどこにある!?」
 リートベルクの声音が激しさを増した。
「あれをどうするつもりなの?」
 答えは聞かなくてもわかりきっている。彼はあの宝刀を皇家を継ぐために必要なものだと思いこんでいる。あれさえあれば、自分が次の皇帝と認められるだろうと…… そんなことが今の帝国で叶うはずなどないのに。
「知れたこと。私がこの帝国を導くために必要なんですよ」
 聞くんじゃなかった……内心思いながらヘネラリーフェは、彼の問い掛けをキッパリと突っぱねた。
「知らない……知っていても教えない」
「では思い出していただくまでです」
 言った途端、ヘネラリーフェの躰が数人がかりで仰向けに押さえつけられた。
 抗うこともできぬままのヘネラリーフェの着衣に手がかけられる。肩から胸元まではだけられ白皙の肌が露わになった。 
 針が近付いてくる。鎖骨の下あたりに感じた微かな痛みに思わず眼を閉じた。
 薬剤が注入される感触がヤケにリアルに伝わると思った瞬間、ヘネラリーフェを脱力感と浮遊感が襲った。視界が急速にぼやけだす。
「どうです、良い気分でしょう? 宝刀はどこです?」
 冷笑を含んだその声がぼんやりとした虚ろな意識に遠く響く。だが口唇は動かされなかった。舌打ちの音が微かに響く。
「もう一本打て」
 冷酷な声が命じ、再びヘネラリーフェの躰に注射器が突き立てられる。今度は躰が急速に落下するような感覚に捕らわれ、ヘネラリーフェは思わず仰け反った。
 視界が闇に呑まれる。既に人の顔の判別どころか輪郭すら把握できなくなっていた。
 リートベルクがヘネラリーフェの身体を抱き起こした。自分の躰でありながらまるで自由が利かず、ヘネラリーフェはグッタリと頭を仰け反らせたまま彼の腕に抱かれている。
「いい加減思い出さないと、言う気になったときには時既に遅しという事態になりかねませんよ」
 このまま正気を失うまで薬を投与し続け、人形のようなヘネラリーフェを手元で飼い殺しにするのも一興かも……そんなサディスティックな思考に溺れそうになりながら彼女の耳元に囁きかけ、そして彼はヘネラリーフェの耳を舐った。
 朦朧としながらもあまりの嫌悪感にヘネラリーフェの眉が辛そうに寄せられる。そんな表情をさせるのが心底楽しくて、今度は彼女の可憐な口唇に己のそれを重ねた。
 無理矢理口唇をこじ開け舌を差し入れる。逃げまとう彼女のそれを追いかけ捕まえ、そして思う存分吸い上げた。ヘネラリーフェが苦しげな表情で逃れようと首を振る。
 夢うつつの中で、だかヘネラリーフェは自分がロイエンタールに触れられても嫌悪感を抱かなかったことに気が付いた。
 無理矢理腕ずくで抱かれていても、そしてまるでいたぶられるかのように酷い抱き方をされたときでも、ロイエンタールの快楽を引き出す手からはどこか優しさが感じられたのだ。
(どうして……どうしてこんなときにあいつのことなんて思い出すのよ)
 だが気が付けばロイエンタールの顔を脳裏に浮かべてしまっている自分がいる。薬によってまともな思考も精神力も失っているが為に、尚更心に歯止めがかけられないのだ。
 薬の所為……薬の所為でおかしくなっているのだ。必死でそう思おうとした。
 耐え難い苦痛に襲われているのだろうか……荒い息がヘネラリーフェの口から漏れる。 
 リートベルクの言葉に逆らおうとさえしなければ自白剤自体は投与されても決して辛いものではない。確かに意識朦朧としたり浮遊感や脱力感に襲われるが、それは麻薬の禁断症状を思えばむしろ気持ちが良いと思えるものである。
 だが己の精神を縛りつければ、それは拷問に値する苦痛を生み出す薬物となるのだ。そして今のヘネラリーフェはまさにその状態にあった。
 一本また一本とアンプルの中身がヘネラリーフェの体内に注入される。これ以上投与を続ければ肝心の宝刀の在処を聞き出す前に本当に狂いかねない。リートベルクは焦りはじめていた。
「昔も今もかわらず強情で意地っ張りな性格のようですね。女性にはなるべく優しくしたいんですがね、私は……」
 既に混沌とした世界に呑み込まれているだろうヘネラリーフェからの反応はない。
 時折激しく躰を仰け反らせたりしているのは、きっと夢の中で何かに抗っているのだろう。
「狂った花嫁というのも良いかもしれませんね。言いたくないなら言わなくても結構。正気をなくしたまま私の人形になりなさい」
 美しいヘネラリーフェ……むしろ正気をなくしてくれた方が花嫁として相応しい。
 人形なら逆らうことも生意気な口を利くこともない。ただただ従順にその美しい姿を己の眼にだけ晒してくれればいいのだ。
「幼い君も可愛らしかったが、暫く見ぬ間に凄まじい程に美しくなったものだ」
 琥珀色の髪をまさぐりながら囁く。
 宝刀が手に入らぬのなら、その所有者を手に入れればいい……レオン亡き今、あの剣の正当な所有者はヘネラリーフェただひとりなのだ。そうだ、何故そんな簡単なことに気付かなかったのだろう? 
 リートベルクは嬉々とした表情を浮かべると、グッタリと横たわるヘネラリーフェの腕の戒めをほどき、そのまま彼女の細い肢体を抱き締めた。花嫁にすると決めた大切なその躰に傷を付けるわけにはいかないのだ。
 鎖骨の下に無数に付けられた注射針の痕が紫色に変色している。指でなぞるとヘネラリーフェが微かに呻いて身を捩らせた。
「あとはロイエンタール……あの男をなんとかすれば……」
 その時、部下のひとりが叫びながら地下室に飛び込んできた。
「伯爵、侵入者です!!」
 だがリートベルクはニヤリと嗤ったにすぎなかった。侵入者の検討はついている。大方ロイエンタールがヘネラリーフェを取り戻しに来たのだろう。飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。
 二人の関係こそ誤解しているもののそれ以外は正しく認識する知能が一応はあるリートベルクは、侵入者を殺さず生け捕りにするよう部下に命じた。
 つい先程花嫁にすると決めたはずのヘネラリーフェを、再びロイエンタール失脚の駒に使おうと考え直したのだ。
「余程貴女が大切らしいですね」
 その言葉を虚ろな意識の中で聞きながら、だがヘネラリーフェはその言葉を心の中で否定していた。
 そんな筈はないと……あの男が自分の為に危険を冒す筈がない。たかが捕虜の為にそんなことはしやしないと。
 薬の作用も手伝って唐突に頭の中が思考の渦となり溺れそうになる。混乱するヘネラリーフェの耳に凄惨な囁きが流し込まれた。
「仲良く心中でもしていただきましうか。それだけでローエングラム元帥府にとっては一大スキャンダルになるでしょうからね」
 もしかすると、彼こそ既に正気を失いつつあるのかもしれない。

 

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