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第十二章

七 暁暗


 ウルヴァシー事件は少なくともロイエンタールを奈落の淵に落とし込むことに成功した。皇帝に反旗を翻した覚えも、その気もない。だが、叛逆者に仕立て上げられるくらいなら、自らの意思で叛逆者になった方がマシであった。
「どうやら俺はローエングラム王朝における最初の叛逆者ということになったらしい」
 ルッツが負傷したという報告をもたらされたロイエンタールは、ヘネラリーフェに向かってこう言った。
 この時ヘネラリーフェはロイエンタールに言葉を返さず、彼もまた彼女の返答を期待して声を掛けたわけではない。ヘネラリーフェの現時点での身分は確かに帝国元帥だが、だが彼女は帝国の為に働こうなどとは露ほども考えていないに違いなかった。帝国の混乱を殊更に喜ぶことがない変わりに、それを苦痛と思うこともないのだ。
 だからロイエンタールの言葉に反応する必要もないし、何か気の利いた言葉をかけてもらえるとも彼は正直思っていなかった。ヘネラリーフェは自分を憎んでいるのだから……ロイエンタールはそう思っていたのである。いわば彼の言葉は独言に近いものであったのだ。
 だが、実のところヘネラリーフェはどう考えていたのだろうか? この時、ヘネラリーフェが何を考えていたのかロイエンタールは知る由もなかったが、少なくともヘネラリーフェはこの状況を喜んでいるわけではなかった。
 今の彼女はロイエンタールと自分の関係そのものを冷静に見つめることができるようになっていたのだ。逆らい抗うことしかしなかったあの頃とは違う。勿論それが愛しているとか好きだという感情に結びつくわけではない。だが、これ見よがしにロイエンタールとは逆の感情を抱く気もなくなっていたのだ。
 ロイエンタールが何を考え、どうするのか……彼女は自分自身でも驚くほど冷静に事態を見守ろうとしていた。度胸が座ったというのだろうか……自分には関係ないとは思っていない。それどころか自分の動き方ひとつで事態は思わぬ方向に転がる可能性も捨て切れないくらいだ。
 だからこそ、ヘネラリーフェはロイエンタールのやりたいようにやらせてみようと思ったのだ。どのみち今回の事に関してロイエンタールがいかにヘネラリーフェの言でも容れてくれないのは確実なのだから。
 ヘネラリーフェも人並み以上に自尊心が強く誇り高い人間だが、ロイエンタールはヘネラリーフェに輪を掛けてそれらが高く、そして強い矜持をも持ち合わせた男である。そんな男が、全身全霊をかけて愛した女の言うこととはいえ、素直に聞き入れるとはとても思えない。
 本当は、ロイエンタール自身が皇帝の元に赴き身の潔白を証明するのが一番良いことなのだが、そんなことをするくらいなら死ぬとでも言い出しかねないだろう。ロイエンタールという男は誰にも屈せぬのだ。そう……例え自らが仰いだ皇帝であっても。
 自分はどう動くべきか……実は自分自身を測りかねていたのはヘネラリーフェ自身だったのかもしれない。だからこそ見守り見届けようと思いつつ、その実動くことができなかった。できることなら再び戦乱の中に踏み込みたくはない。が、ロイエンタールを見捨てられないのも正直な気持ちなのだ。
「お前はどうする?」
 ミッターマイヤーが皇帝親征を押し留め、自らがロイエンタールを討つために出撃したことを知った彼はヘネラリーフェにこう問うた。皇帝の意に添うのか、それとも……
「昔ね、ダグが言っていたことがあるの。明ける前の闇は一層暗さを増す、とね」
 まったく関係ないと思えるようなことをヘネラリーフェは言い出した。暁暗……闇は自らをも覆い隠すほどその濃さを増す。だが、必ず夜は明けるのだ。
「明けない夜はない」
 もしかしたら、ロイエンタールと過ごした日々を支えたのはダグラスのこの言葉だったのかもしれない。
「だから、貴方は貴方の思う通りにすれば良い。ただ後悔だけはしないようにね」
 ダグラスはあの若さで逝ってしまったが、恐らくその人生を悔いるような生き方だけはしていなかった。ヘネラリーフェもだ。自らの力ではどうすることも出来なかったことも多かったが、でもその度に自分で最上だと思える路を選んできたと思う。死がイコール夜明けだとは正直思いたくないが、それで救われることもあるのかもしれない。生きていても闇の中を歩き続けるのなら、それもひとつの考え方かもしれないのだ。
「貴方のことをどう思うかと訊かれれば、私はまだわからないと言うしかない。憎いとも思うし、でも嫌いでもないと思う。それを見極める為にも私は貴方の傍を離れるわけにはいかない。だから……ここにいるわ。貴方の傍にいてあげる」
 境遇を受け入れることとプライドを捨てることは違う。自分も、そしてロイエンタールもプライドを捨てるような人間にはなり果てていない。だからこそ、自分の思う通りに生きて欲しい。そうしなければならないのだ。そうでなければ、永遠に闇の中から抜け出せないのだから。
 ヘネラリーフェは柔らかく微笑むと、身を屈めてロイエンタールの口唇にそっと自分のそれを重ねた。その言葉が果たしてロイエンタールの心にどう響くのか、彼女はそれを計算していたわけではない。ただ、それが彼女の正直な気持ちだった。そして、この言葉はロイエンタールの心を少なからずも救うものだったに違いない。

 

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