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第五章

四 憂い


 部下の死に涙したものの、その後のヘネラリーフェはまさしく不貞不貞しいと言う形容が一番相応しい態度をとり続けた。
 一日一回、ロイエンタールとミッターマイヤーが彼女の病室に顔を出す。そう書けば聞こえはいいが、これはあきらかに艦隊司令官としての捕虜への尋問と呼ばれるものであった。無論ヘネラリーフェの躰に負担がかからぬよう配慮はしていた。だが、彼女がヤン艦隊の重鎮であるからには聞き出さねばならぬことも数多くあったのである。
 しかしヘネラリーフェはそれに素直に応じる性格ではなかった。そもそもこの先何をしてもこれ以上立場が悪くなるとも思えないからという半ば捨て鉢的な態度に、ロイエンタールとミッターマイヤーは心底閉口していた。命を捨ててかかる人間ほど厄介なものはないのである。
 部下からは捕虜に人権などない、自白剤を投与して喋らせれば良いじゃないかという強硬な意見も出たが、旧政権じゃあるまいしさすがにそこまでして口を割らせる気にはならなかった。
 ヘネラリーフェが負傷などしていない健常者だったなら、ひょっとすると無理矢理喋らせることも考えたのかも知れない。だが、やはり重傷のしかも女性に対して拷問に等しい苦痛を与えることは憚られたのである。
 それにもうひとつ、彼女の目にもたじろいでいた。憎しみとか怒りといった感情ではないにしろ彼女の厳しい眼差しには一種独特の、歴戦の勇者をも怯ませる強さがあったのだ。少なくともミッターマイヤーはそう思っていた。
 だが、ロイエンタールはどうだったのだろう? 彼は生まれながらの狩猟者であり、オーベルシュタインは彼を猛禽と称して危険視している。ロイエンタールとは、つまりそういう人間でもあった。
 つい先日までロイエンタールにとってヘネラリーフェはロケットの中からただ笑い掛けてくるだけの存在だった。しかもその笑顔はロイエンタールに向けられたものではなく別の男へのものである。だがそれ自体に何か含むところがあったわけではない。
 カプチェランカの悲劇から数年を隔ても、ロイエンタールにとってダグラス=ビュコックはやはり敵ではなく束の間でも友誼を交わした友であった。その彼が今際の際にロイエンタールに託したロケットとヘネラリーフェへの言葉をずっと携えていこうとも決心していた。
 その決心が潰えぬように、ロイエンタールはダグラスの遺品である銀のロケットを肌身離さず持ち続け、その結果毎日のようにヘネラリーフェの顔を眺めることになったのである。そうするうちに彼女への興味が強く湧きだしたことを誰が責められるのだろうか? 
 写真の中のヘネラリーフェはいつも優しく微笑んでいる。だが、いつもこの表情ではない筈だ。ダグラスの腕の中で、一体彼女はどんな表情をしていたのだろう? 笑ったかと思えば怒り、そして泣くのか……そんな想いに捕らわれはじめたときに降って涌いたようなヘネラリーフェとの皮肉な出逢いだったのである。
 出逢ってみて益々興味を惹き付けられた。
 負傷して意識のない彼女に脆さを見た。だが逆に強さをも確かに見た。ただひとり敵中にある孤独を強い眼差しでひた隠しに隠しロイエンタールを真っ直ぐに射抜く姿は、気丈を通り越しどこか憂いさえ感じる。
 恋や愛ではないと思う。だがどこか断ち切れない微妙な感情がロイエンタールを支配しようとしていた。
 そんなロイエンタールがその日ヘネラリーフェの病室に足を踏み入れたとき、彼女は眠っていた。傷は回復に向かっているものの元々が重傷だったのと、体力の回復にも縁遠く多分疲れやすくなっているのだろう。未だにベッドの上に起きあがることもできない状態であった。
 特に何か用があったわけでもなく、かといってその場を離れることもなんとなく躊躇われ、ロイエンタールは自分でも驚嘆しながら彼女の寝顔を見守った。
 どれほどの時間がたったのだろう。ヘネラリーフェの青緑色の双眸がすぅっと開いた。
 目の前の極至近に黒と蒼の金銀妖瞳。瞬間ヘネラリーフェに動揺がはしった。寝顔を見られて照れたとかそういう類のものではなく、明らかにそれは軍人としての冷ややかで厳しいものである。
 その目を見た瞬間、ロイエンタールの背中をゾクゾクするような快感が走り抜けた。
 この時ロイエンタールは悟った。自分が彼女をどうしたかったのかを。彼が欲しかったのは彼女の優しい笑顔などではなかったのだ。そして無論泣き顔でもない。どれほど踏みつけらようとも失われることのないだろう強さと輝き、彼は彼女のそれが欲しかったのである。
 咄嗟にヘネラリーフェの細い手首を掴みベッドに組み敷いた。
「何するのよ」
 僅かに動揺しながらも、だが決して叫ぼうとしないその冷淡さにも目を奪われた。
「何をするかだと? 女が捕虜になればどうなるかということぐらいお前も承知しているだろう?」
 残虐な光が揺蕩たう金銀妖瞳を負けず劣らずの強い眼差しでもってヘネラリーフェは睨み付けた。
(この目だ)
 ロイエンタールの劣情を掻き乱さずにはいないこの目が、彼の征服欲に火をともす。
 ヘネラリーフェの顎に手を掛けると上向かせた。白く細い項が露わになる。耳元にそっと口付けると甘やかな香りが鼻孔をくすぐる。ロイエンタールの口唇の感触に、彼女は耐えるようにギュッと目を瞑った。
「好きにすればいいわ。捕虜に人権などないのだから」
 乱れた柔らかな髪、どれほど傷付けられようと輝きを失わないだろう青緑色の双眸。細い手足に、力を込めれば折れてしまいそうな頼りなげで華奢な肢体。白いシーツの海の上、微かに震える声で彼女はそう言った。
 怒りと哀しみを湛えた瞳がロイエンタールを睨み付ける。その翡翠の瞳に吸い込まれるようにして、ロイエンタールの口唇が彼女のそれを覆った。口付けられる息苦しさに彼女が口唇を僅かに開ける。そこから舌を差し入れると、思う存分蹂躙した。
 ヘネラリーフェの口唇を解放したときロイエンタールが見たものは、閉じられることのなかったであろう彼女の眼差しであった。ありったけの侮蔑が込められた冷然たるそれに倒錯的感覚を覚える。
(無茶苦茶にしてやる。二度とそんな目で俺を見られないように)
 ベッドの軋む音が病室である筈のその空間に微かに響き渡る。それはヘネラリーフェを絶望の淵へと追い詰める音でもあった。

 傷つき疲れ果てた白皙の肢体が乱れたシーツの上に投げ出されている。包帯は取り去られ、戦闘で付けられた傷が痛々しさを醸し出すと同時に、生々しい情事の痕跡が花弁のように散らされていた。
「痛ッ……」
 身を起こそうとして、だがヘネラリーフェは苦痛に喘いだ。躰中が軋んだ悲鳴をあげる。
(まったく、他人の躰だからって酷使してくれちゃって)
 起き上がるのを断念し、ヘネラリーフェは躰を俯かせた。覚悟していたことだった。少なくとも自分が帝国軍の捕虜になったとわかったときに。不意にシェーンコップのことが思い出される。
「もし捕虜になったら、お前ならどうする?」
 過去シェーンコップにこう問われたことがあった。数秒後考えを巡らせたヘネラリーフェが答えを紡ごうとしたとき、だが彼は彼女の言葉を遮った。「死ぬってのはなしだぞ……」と。
 答えの選択肢を奪われヘネラリーフェは唖然としたものだ。同時にシェーンコップに喰ってかかっていた。弄ばれるくらいなら死んだ方がマシだ! と。そんなヘネラリーフェをいつものように不敵な笑みで一瞥すると、シェーンコップは自身満々に言った。
「死んでしまったら報復できないぞ」
 所詮躰が傷つくだけ、心を奪うことは誰にもできない。シェーンコップはそう説いた。だがそれは女にとっては屈辱以外の何物でもない筈だ。その時ヘネラリーフェはそう考え彼の言葉に素直に頷けなかった。
 今、まったく同じ立場に自分は立たされた。違うのは、こうなる以前にヘネラリーフェが生命を捨て去ろうとしたことだ。そう、既に捨てた命……失うものは何もなかった。
(たかが躰の傷)
 シェーンコップの言葉に、今なら素直に頷ける自分が確かにそこにいた。
 
 イゼルローン回廊を出て約二週間後、ロイエンタールとミッターマイヤーの艦隊は無事オーディンへの帰還を果たした。そしてロイエンタールはラインハルトに知らせることなくヘネラリーフェの身柄を己の元に拘束した。
 この時、ロイエンタールが何を考えヘネラリーフェを手元に置いたのか、本人にさえも明確な答えは出ない。もしこのことが外部の人間に知られたら身の破滅は免れないだろう。それでも憲兵隊の手に、ましてや去勢区に送り込むことだけはしたくなかった。
『もし万が一出逢ったら、彼女を助けてやってくれ』
 今際の際のダグラスの言葉がロイエンタールの心を惑わせたのかもしれない。
 自分の身の処遇に関してヘネラリーフェは何も言わなかった。捕虜である限り自分には文句を言う自由もない。生殺与奪はロイエンタールに握られているのだ。
 命が惜しいわけでは断じてなかった。
(どうせ逃れられぬのだ。ならば……)
 その時、ヘネラリーフェの心にある確固たる信念が浮かび上がった。
『どうせ逆らえぬのだ。ならばせいぜい派手に手玉にとってやろう』

 宇宙歴七九八年五月、ヘネラリーフェはあくまでもヤン艦隊の人間であり続けようとしていた。

 

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